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| 平和教育とは何か |
| ―平和を望むなら平和に備えよ― |
| 『軍縮問題資料』(宇都宮軍縮研究室発行)2000年12月号 |
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近年、国際社会では、平和教育への関心と期待が急上昇している。民族間の紛争や校内暴力が増えているためである。かたやアフリカで、バルカン半島で、パレスチナで、スリランカでの民族紛争があり、かたや増大する若年層の殺人事件があり、世紀末の風景は暗い。米国の学校では銃による殺傷事件があとをたたず、三年前には「校内銃禁止法」が施行されたが、それでもなお、一九九八年〜一九九九年の一年間に銃を携帯して登校し、退学処分になった生徒数は三、五二三人にのぼった(内訳は高校生五七%、中学生三三%、小学生一〇%)(Safe & Drug Free Schools Program Homepage:
http://www.ed.gov/offices/OESE/SDFS/news.html)。
校内暴力をなくすためにも、核兵器その他の大量破壊兵器や地雷のない平和な世界秩序を構築するためにも、平和教育は不可欠である。一九九九年五月のハーグ平和会議では、「平和教育なくして平和なし」(No Peace Without Peace Education)というモットーの下に、平和教育を世界のすべての学校に普及させるための「平和教育キャンペーン」が満場一致で決議された。NATO(北大西洋条約機構)軍によるコソボ爆撃の最中だった。国連もまた二〇〇〇年からの一〇年間を「平和教育の一〇年」と規定して、各国の協力を求めている。 ところがである。世紀末日本の平和教育は重大な危機に直面している。背景には政治がらみの「新自由主義史観」運動がある。西尾幹二著の『国民の歴史』や西尾幹二・藤岡信勝共著の『国民の油断』などの販売攻勢と無料配布、自虐史観・暗黒史観・反日史観といった言葉のバラ撒き、小林よしのり作の『戦争論』というマンガの氾濫である。彼らの策動は国旗・国歌法の制定さえ可能にし、ついに憲法と教育基本法の改悪にまで及ぶ勢いである。 およそ日本国内でしか通用しない彼らの「大東亜戦争肯定論」は、すでに中国や韓国との外交関係にまで悪影響をおよぼしており、不況下の国民の不満と不安をあらぬ方向へと誘導する役割を果たしている。歴史の改竄と大衆への迎合という手法はナチズムを台頭させた戦間期のドイツを思い出させる。「二度の世界大戦に破れたドイツはやっと歴史から学んだ。敗北を一度しか経験してない日本は危うい」とささやく人さえいる。 特に広島県における平和教育・人権教育攻撃はすさまじい。県教育長と校長との関係や県教委と教職員組合との関係は戦後最悪であり、「問答無用」の教育行政が放置されている。県教育長の手法は関係者の合意によって成立した申し合わせの一方的破棄を平気で行うなど、民主主義的手続きの成果を一切無視した権力の乱用をこととしている。このような教育行政の中で健全な民主主義的教育を期待することはできない。 権力を持つ者と権力を持たない者との関係がこのように一方的である大人の社会の人間関係は、生徒間では腕力の強い者と弱い者との関係の悪い手本となる。「親の背中を見て育つ」子どもたちは、学校では「先生の背中を見て学ぶ」。校長や一部の先生が「威張っている」学校で大人の社会を「盗み見」している生徒らに「いたわり」や「思いやり」を教えても無意味である。教職員組合での人間関係も生徒にとって模倣すべき見本でなければならない。 「ホリスティックな平和教育」というのが欧米にはある。ホリスティックとは「全体、完全」を意味するギリシャ語を語源としており、ホリスティックな平和教育は網羅的なテーマをカリキュラム化しようとする試みだが、ただ網羅的であるというだけではない。 ホリスティックな平和教育では、左に示すような許される限り網羅的なテーマを取り込むことと同時に、教師も生徒も不戦・非暴力・人権尊重・環境保全などの価値観を共有し、そうした価値へのコミットメントが要求される。真の平和教育は不断の自己啓発と「変身」を教師たる者に要求するものであり、教師は常に「教えかつ学ぶ者」(teacher-learner)でなければならない。かつてアスビョルン・アイデというノルウェーの平和研究者は「平和学は学問(science)に良心(conscience)を注入した」と言ったが、平和教育も同様である。 A―「戦争と軍事についての平和教育」(物理的争いを中心にした暴力の批判) 「暴力的平和教育」 私は『ピカドン』というアニメ映画を平和教育の教材として使っていた時代があった。もちろん、原爆災害を描いた作品である。だが、驚いたのは、「このアニメは平和教育とは無関係だ」という批判を浴びたことだった。一九七九年、ドイツで開かれた国際平和研究学会(IPRA)でのことだった。オーストラリアの教育学者は「軍縮問題は平和教育のテーマに相応しくない」とさえ言った。 では、当時の彼らにとって平和教育とは何だったのか。他人に対して暴力を振るわない態度、他人をいたわる心、動植物や環境に対してやさしい生活スタイルなどを教え培うことこそ、平和教育なのだというのが彼らの主張だった。ヒロシマ・ナガサキ、アウシュビッツ、核軍縮などについての知識をいくら教え込んでも平和的ライフスタイルを生み出すことはできず、それは「暴力的平和教育でさえあり得る」というのだった。 彼らはまた、幼年期の子どもにヒロシマ・ナガサキやアウシュビッツのような残酷な光景を見せることにも反対だった。そうした光景を見せることは逆効果であり、平和な心情を創り出すことには繋がらないと彼ら主張する。米国で『ザ・デー・アフター』という米ソ核戦争の映画がテレビ放映されたときも、子どもの鑑賞を禁ずる字幕が出たのには驚いた。日本でなら未来を担う子どもにこそ見せたいということになっただろうからである。 こうした平和教育理解も一面的である。彼らの主張に従うならば、戦後日本の平和教育はそのほとんどが否定されることになるだろう。だから、ほとんど同時期にユネスコが「軍縮教育」(Disarmament Education)というテーマで会議を開催したことに私は快哉を叫んだ。戦争、核廃絶、軍備撤廃などについて教えようとしない平和教育への警鐘だった。 しかし、である。「他人に対して暴力を振るわない態度、他人をいたわる心、動植物や環境に対してやさしい生活スタイルなどを教え培うこと」こそ平和教育だという主張にも一理はある。教師自身の権威主義や生活スタイルを不断に反省することなしに、ヒロシマ・ナガサキ、沖縄、アウシュビッツ、在日問題を教えても、子どもの耳には届かない。ホリスティックな平和教育が必要なゆえんである。 平和教育はなによりもまず生命の尊重、殺傷とあらゆる暴力の否定、人権の尊重、自然との共生を推 進し、学習者に生きる力と喜びを与えるものでなければならない。すなわち、平和教育の核心は「エンパワーメント」にある。エンパワーメントとはパワー力を身につけ、パワー権能を取得し、パワー能力を高め、パワー元気にな ることを意味する。エンパワーメントの平和教育は生命の尊重、暴力の否定、人権の尊重、自然との共生を可能にするだろう。 二〇世紀の特徴は核兵器を頂点とするピラミッド型の暴力構造、強権的・暴力的な「ハードパワー」の世界システムだった。頂点に立つのは「世界の警察官」をもって自認する米国であり、核兵器による脅し、軍事介入、武器貿易、地雷や機雷の敷設、経済制裁が「法と秩序」の手段だった。「正義の戦争」と言えば聞こえはいいが、「正義」かどうかの判断を下すのも米国だった。新自由主義史観派にとって「大東亜戦争」は聖戦だったし、サダム・フセインも湾岸戦争を「ジハード」だと主張した。 だが、エンパワーメントの「パワー」は「ソフトパワー」のシステムであり、生き方である。戦争ではなく外交交渉、弱肉強食ではなく共生と互恵の社会、自然の征服ではなく自然との調和、強制ではなく理にかなった説得、押し付けの教育ではなく主体的学習―これがソフトパワー社会の指標である。 「教育とは暴力的なもので、子どもの人権を認めたら学校は成り立たない」と主張する本(河上亮一著『学校崩壊』)がベストセラーだという。とんでもない主張である。だが、こうした本が歓迎される日本社会の現実にこそ私は危機感を抱く。戦前・戦中の教育への回帰を求める人たちはひどい健忘症に罹っている。敗戦や占領という屈辱的、しかし貴重な民族的経験から学んだ教訓は無駄だったのだろうか。 戦前・戦中の権威主義的スパルタ教育は即効的だが、権力に迎合する人間を生み出すだけで、権力を批判する確かな視点をもった自律的・主体的人格を育成することはできない。が、彼らの存在なしに健全な民主的市民社会を形成することは不可能である。生き生きとした教師と生徒の触れ合いはなくなり、教師と生徒が共に窒息状態に置かれている中で真の教育を求めることはできない。 農薬づけの畑に囲まれた地所で有機農業を始めると害虫が集まってきて、荒されてしまう。しかし、だからといって農薬に頼るのでは有機農業は永遠にできない。同じ悩みは確かに教育にもある。マキャベリズムで生徒に恐怖を抱かせれば教室の秩序は保てるだろう。だが、マキャベリズムで行く周囲と同調したのでは本当の教育はいつまでたっても始まらない。有機農業と同じく、民主的教育には時間がかかるのである。 かつては「平和を望むなら戦争に備えよ」(Si vis pacem para bellum)と言われた。軍事的手段による安全保障という思想である。その結果、冷戦時代の核軍拡競争はその極限にまで達した。しかし、二〇世紀最後の一〇年、事態は大きく変わった。国際司法裁判所は核兵器を違法な兵器とし、国連でももはや核兵器廃絶は夢想ではなく、政治的意思の問題であることが確認された。冷戦終結の成果であり、歴史の歩みは紆余曲折だが確実に前進していることを私たちは知ったのである。 ホリスティックな平和教育は「平和を望むなら平和に備えよ」(Si vis pacem para pacem)と主張する。すなわち、平和的手段による平和・安全保障(peace and security by peaceful means)である。「平和に備える」ホリスティックな教育は徐々にではあるが平和文化の担い手となるに相違ない。未来を担う若者たちはそうした平和教育によってこそ「エンパワー」され、生きる活力を取り戻すことになるだろう。 |
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