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| 盟友の死を悼む |
| 日本平和学会ニューズレター |
| Vol.15 No.1 2002/4/20 掲載(一部変更) |
| 鎌田定夫さんが逝ってしまった。長年、日本平和学会の理事だった。私財を投じて長崎平和研究所を創り、核兵器廃絶に焦点をすえた実践的平和研究に取り組まれた。平和イベントを次々に企画し、雑誌を編集・発行し、文集をまとめ、国の内外の平和学会や平和集会に足を運ぶアクティヴィストとして余人の追随を許さなかった。在韓被爆者問題にも早くから目をつけ、韓日両民族の和解に尽力された。まさに「凄い人」(梅林宏道氏)だった
いつも笑顔を絶やさない人だった。しかし、内にみなぎる平和への情熱と原爆や戦争への怒りは時に執拗なほどで、ひとたび発言の機会が与えられるや、人の倍は喋った。最初は辟易していた人たちも、実践に裏付けられた鎌田さんの貴重な報告や具体的な提言に魅せられ、鎌田ファンになった。私もその一人だった。 私たちが知己になったのは1980年に横浜で開催されたアジア平和研究国際会議でのことだった。坂本義和東大教授(当時)が国際平和研究学会(IPRA)の事務局長のときだった。それまでは顔見知り程度だったが、次第に濃密な交際に変わっていった。2人とも平和学に関わってはいたが、鎌田さんはフランス語教師、私はドイツ語教師だった。政治学や経済学など、社会科学が主流の日本平和学会では周縁的存在だった。それがかえって2人を結びつけたのかも知れなかった。 鎌田さんの軸足は被爆者の証言活動支援と平和教育だった。62年の長崎造船短大助教授就任以来、長崎造船大学教授、長崎総合科学大学教授と続いた30数年間、鎌田さんは研究と教育に従事する傍ら、軸足の強化と展開に専念した。かくて、69年「長崎の証言の会」結成、78年長崎平和文化研究所創設と軸足を伸ばし、85年から退職するまでは、自ら平文研所長も務めた。 彼は広島にもよく足を運び、「証言の会」を開催した。成果はすべて『ヒロシマ・ナガサキの証言』と『平和文化研究』の誌面を飾った。鎌田さんは、これらの定期刊行物をほとんど遅延することなく続けた。長崎総合科学大学を退職後の97年1月、彼は、登山中に遭難したご子息の保険金と私財を投じて、民間の長崎平和研究所を創設した。研究所からは『長崎平和研究』が刊行され、他に類を見ない実践的平和研究誌となった。 ところで、同じ原爆被爆都市でも広島と長崎は違う。昔はよく「怒りの広島、祈りの長崎」と言われ、動的な広島と静的な長崎が対比された。長崎では永井隆博士の「原爆宿命論」の影響も大きく、諦観の壁が厚かった。鎌田さんの被爆証言運動は徐々にこの壁に風穴を開け、長崎の反核平和運動を広島以上に鋭角的かつ国際的な運動に変えていった。毎年8月の「平和宣言」を長崎ではまず起草委員会が原案を作るのも、広島とは決定的に違う。こうした原爆理解や開かれた平和行政にも鎌田さんは深く関わった。 四国学院大学にいた頃、学生を引率して広島と長崎を訪問したことがあった。国際平和学現場研修という授業の一環で、原爆資料館を見学し、被爆者の証言を聞き、市内の原爆遺跡を訪ねたりするのだが、長崎では宿泊の世話から、被爆者の紹介、プログラムの内容にいたるまで、鎌田さんのきめ細かい配慮を頂くことができた。数年前、妻がIPRA総会でABCCの人権侵害について発表した時も、事前に、2人で長崎を訪れ、被爆者を紹介して頂くなど、鎌田さんと信子夫人のお世話になった。 盟友の鎌田さんを失った私は途方に暮れている。もはや、平和学会理事や全国平和教育協議会代表委員や日本学術会議平和問題研究連絡委員として同席することもなくなった。病床にあっても核廃絶への執念を燃やし、「4月のヒロシマ・ナガサキ反核平和米国使節団についての一文は岡本さんとの共同執筆にしたい」という依頼状が鎌田さんからの最後の手紙になってしまった。それを果たせなかったことが、無念である。 |
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