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不戦兵士の遺志継承を
―小島清文さん死去に寄せて
山陽 中央新報 02/4/4掲載


 十年ほど前だったろうか、小島清文さんと信太(しだ)正道さんが訪ねてきた。「不戦兵士の会中国支部」を作りたいので協力して欲しいというのだ。異存はなかった。ただ、支部代表を懇望されたときには閉口した。従軍兵士の経験がなかったからである。しかし、事情を聞くと、「不戦兵士は皆七十歳から八十歳、せめて支部立ち上げ時の代表は比較的若い貴方が務めて欲しい」という。

 私は迷った。私が代表になれば、人は私を元兵士と思うに相違ない。それは事実に反する。が、私が引き受けなければ支部の立ち上げは難しい。二人は私にそう迫った。相手は元戦艦大和の乗組員と元神風特攻隊員。私は元軍国少年。酒肴を共にしながらの話だった。話は無謀だったアジア・太平洋戦争批判に及び、厭戦、嫌戦、反戦の心情を確認し合う席となった。そして、結局、私は二人の折伏に屈した。

 当時、小島さんは東京と浜田間をよく往来していた。そのせいもあってか、広島にもたびたびやってきた。誕生して間もない不戦兵士の会中国支部が心配だったのだろう。信太さんが広島にも住居を持っていたことが幸いし、支部の歩みは順調だった。例会には毎月十五人前後の元兵士が集まり、『不戦を誓う―「不戦兵士の会中国支部」文集(一)』には十一人が寄稿した。小島さんは「日本人と戦争」、信太さんは「戦争への道」という文章を寄せてくれた。

 小島さんの証言は何回か拝聴する機会があった。大学の平和学講座でも二百人ほどの学生に講義をしてもらった。最初は「私の話は三時間です」というので驚いた。大学の授業は九十分だから、その倍である。「皆さん、飽きませんよ。ご心配なく」と、小島さんには自信があった。大学での証言は九十分もなかったが、市民集会では本当に三時間話した。休憩後もほとんどの聴衆が残った。奇跡的に餓死を免れて、今、眼前に立つ元大日本帝国軍人の証言に皆のめり込んだ。

 圧巻は白旗を掲げて集団投降したときの鬼気迫る描写。まかり間違えば、米軍の一斉射撃を受けるかも知れない。背後から友軍に撃たれるかも知れなかった。「生きて虜囚の辱めを受けず」という軍紀に背いた罰としての友軍による制裁は容赦なかった。投降兵への攻撃は戦時国際法違反だが、米軍も日本軍もやった(ジョン・ダワー著『人種偏見』)。だから、小島少尉の危惧には根拠があった。

 「不戦兵士の会中国支部」立ち上げ時だけの代表のはずだったが、他に引き受け手がなく、今も私がやっている。会は事務局長の落合久徳さんが体調を崩してからは、開店休業。発足した当時の会員の何人かはすでにこの世にいない。悲惨な戦争の語り部が一人また一人と消えてゆく。原爆被爆者も同じだ。世はすでに「戦争を知らない子供たちの子供たち」が主流。戦争のカッコよさが喧伝され、軍服や迷彩服の好きな青年も増えた。

 有事立法とは非常事態法であり、国家総動員法であり、戦争法だ。「まさか徴兵制にはならないだろう」と人はタカをくくっている。が、気がついたときには手遅れ。反対するなら今のうちだ。小島さんや不戦兵士は皆そう言っていた。戦争の無意味さを悟って命がけで投降した小島少尉―戦争中は非国民だったろうが、戦後は多くの人に感銘を与えた。厭戦、嫌戦、反戦の意思は彼の真骨頂だった。それを継承し、次世代へ伝えて行くことが、小島さんや他界したその他の不戦兵士への鎮魂だと私は信じている。

(不戦兵士の会中国支部世話人代表・広島修道大学教授)





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