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| 平和を望むなら、平和に備えよ |
| 『教育評論』2002年9月号(日本教職員組合) |
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冷戦が終結して十数年、世界は冷戦時代以上に物騒な方向へ向っている。「九・十一」(同時多発テロ事件)以来は特にそうである。ひところ話題になった「平和の配当」は影も形もなくなった。米ソ核戦争という、「地球の運命」を賭けた終末論的悪夢こそ遠のいたが、「平和の配当」を享受できる地域も国家もなく、世界同時不況も加わって、二十一世紀初頭の世相は混迷を深める。 南アジアから中近東にかけては、アフガニスタン戦争、インド・パキスタンの対立激化、パレスチナ紛争の泥沼化と、暴力の連鎖は止まるところを知らない。印パ対立の緊張度は高く、核戦争の懸念さえある。米国民の目をそらす必要からか、ブッシュ政権はイラク、イラン、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を「悪の枢軸」と呼んで、敵意を隠さない。 「悪の枢軸」と名指しされた小国からの奇襲を口実に米国民に軍拡のための増税を強いているブッシュ政権は、奇襲などありえないことは百も承知である。「九・十一」の首謀者がいまなお不明なのは不思議ではない。「容疑」の段階であれだけの爆弾を投下する国である。もし、特定の国が奇襲したのだったら、米国の復讐は激烈を極め、かりに通常兵器による攻撃であっても、数日内にその国は地上から抹殺されてしまうだろう。 小泉首相の言う「備えあれば、憂いなし」をかつて西洋では「平和を望むなら、戦争に備えよ」と言った。首相が言っているのは、もちろん戦争への備えであって、災害対策ではない。戦争への準備にはさまざまな要素が含まれる。軍隊(=陸海空軍およびその他の戦力)の設置とその強化、敵の航空機、戦車、装甲車、車両、艦船、ミサイルなどを破壊できる「必要最大限の」兵器の取得、軍隊が出動した場合の法令の整備(有事法制)、敵を殺傷する訓練などである。 安倍官房副長官や福田官房長官の「核武装論」は「備えあれば、憂いなし」の延長線上にあった。中途半端な準備では国防は覚束ない。防衛庁は省に昇格させる。徴兵制もしく。防衛力は「必要最小限」から「必要最大限」にする。もちろん、憲法は変える。場合によっては、米軍基地も撤退してもらう。日本占領の実力を持っているのは米軍だけだから、万一に備えるのは当然だ。米軍に対抗できる軍事力も必要になろう。「備えあれば、憂いなし」は論理的にはこうなる。 その大半は政治の責任だが、「敵を殺傷する訓練」は教育の責任であり、平和教育への挑戦でもある。普通の人間は殺人の経験がない。「人を殺す」ためには特別な教育が必要だ。「人を殺す」訓練はまず敵の「非人間化」から始まる。ベトナム戦争で、米兵が殺したのは人間ではなく、「グック」(guck)だった。日本軍の七三一部隊が人体実験したのは人間ではなく「マルタ」だった。「覚えの悪い兵士」には「グック」や「マルタ」を呪文のように何十回、何百回と唱えさせて、洗脳する。 人を殺すために、非人間化の教育が必要なのは、人間は理由なしに他の人間を殺さないということの証明ではないだろうか。人間以外の動物は同一種の動物は襲わないと言われるが、実は人間も他の動物同様、自然状態では他の人間を殺すことはないのではないか。物欲に狂ったり、犯罪を隠蔽したり、人に極度の恨みを抱いたりして殺人を犯すのは特殊な場合だ。病的な殺人魔や倒錯した性欲の持主はさらに稀である。大多数の人間は、人を殺すような極限状況を経験することなく、一生を過ごす。 「戦争に備える」ためには、「平和的な人間」では困る。だから、人間改造をする。軍隊は「人間改造学校」でもある。この「学校」では、敵への憎しみを抱かせ、敵を非人間化する。第二次世界大戦中、日本人は軍隊以外でも米英国民を「鬼畜」とみなし、中国人ほかのアジア人を人間以下とみなすよう教育され、米国人は日本人を「サル」や「シラミ」とみなすよう教育された。だから、捕虜収容所や死の行進で「鬼畜」が死に、原爆投下で無数の非戦闘員が死んでも、無神経でいられた。ナチス・ドイツの絶滅収容所でもユダヤ人の徹底的非人間化が行われた。 追加(020728)◆アウシュヴィツでドイツ兵はユダヤ人の前で飲み食いし、酒盛りをしたという。相手との関係さえ非人間化されていたことが分かる。関係が非人間化されるということは、殺すほうも非人間化されることを意味する。南京大虐殺や七三一部隊では日本兵が非人間化されて、「鬼」になったのであり、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下では米兵が文字通り「鬼畜」になったのだった。(⇒◆ニーチェの言葉:「悪魔と戦う者は自ら悪魔とならぬよう心せよ」) 軍隊では想像力を働かせてはならない。戦場で対決した敵兵にも両親がおり、妻がおり、子どもがおることを想像したら、その瞬間にこっちがやられるのだと、教え込まれる。兵士たる者は、ミサイルが発射され、次の瞬間には、家や学校や病院や寺院が破壊され、地が鮮血の海と化すことなど想像してはならない。爆撃機の真下には、子連れの母親、妊婦、お年寄り、障害者、病人がいることなど、考えてはならない。「グック」「グック」と繰り返せ、「鬼畜」「鬼畜」と呪文を唱えよ、というわけだ。 二つの世界大戦で惨禍の極限をつぶさに体験したヨーロッパの平和教育では、「平和を望むなら、平和に備えよ」をモットーに、戦争への参加を拒否する。核時代の到来を反映した日本国憲法と異なり、西洋には戦争絶対否定の憲法はない。その点ではヒロシマ・ナガサキ以前に成文化された国連憲章(一九四五年六月)も同じだが、西洋では正義の戦争を是とする思想が長い間人びとの意識を規定してきた。だが、その西洋で、いま、この問題をめぐり地殻変動が起きている。 その震源地は「平和を望むなら、戦争に備えよ」というモットーへの根本的批判である。戦争の規模が比較的小さく、武力への信仰が厚かった時代においては、「平和を望むなら、戦争に備えよ」という思想にはそれなりの妥当性があったかも知れない。だが、兵器の殺傷力が飛躍的に強化され、核兵器のような大量破壊兵器が登場するにいたった現代戦争についても、その準備をすることが「平和を望む」ことに直結する可能性はなくなった。 「平和に備えること」、平和への準備とは具体的にはどういうことか。右に述べた「戦争に備えること」を想起すれば、長い説明は要るまい。いま言った地殻変動とは、膨大な数の良心的兵役拒否者群の出現である。ドイツでは毎年十数万人もの若者が兵役拒否をして、代替業務に就く。良心的兵役拒否はかつては宗教的な理由を必要としたが、現在では「人を殺したくない」という信念だけで通る。良心的兵役拒否者はオーストリア、フランス、ロシアなどでも増えている。 代替業務の内容は、病院、学校、幼稚園、図書館、福祉施設、ボランティア団体、環境保護団体、法律事務所、平和研究所などでの奉仕である。兵役に準じた給与が国から支給され、期間も兵役の場合とほとんど変わらない。野戦訓練などがないだけ、事故に遭う心配は少ない。第一次世界大戦と第二次世界大戦を通して兵役拒否者の人権が確立された。菅直人は厚生大臣時代にドイツなどの福祉施設が兵役拒否者によって支えられていることを知って驚いた。 右に列挙したような代替義務は、単に兵役逃れのための奉仕であること以上に、奉仕内容が社会の「平和度」に役立っていることに注目したい。平和とは単に戦争がないことではなく、衣食住が保障され、福祉が行き渡り、人権が尊重され、健康な自然環境の恩恵に浴しながら生活できることを意味する。そうしたニーズの充足率が高い社会ほどそれだけ「ピースフル」なのであり、「平和度」の高い社会だと言えるだろう。 徴兵制度のない日本では、例外はあるかも知れないが、従軍することの意味についての平和教育はない。個人主義的主張も弱い国民性だから、いったん徴兵制がしかれると、西洋でのように良心的兵役拒否を貫くことは至難であるに違いない。平和教育関係者はいまから有事法制後にやってくる最悪の展開を想定してヨーロッパ諸国の例を研究しておくべきだろう。 「民主主義国家はお互いに戦争をしない」という国際政治学上の有力な結論に照らしても、「平和度」の高い社会を構築する営為は「平和への備え」を目指す広義の教育によって生み出されるものであり、そのような努力によってのみ担保される。ここにおいて、戦争や軍備を当然のこととしてきた旧来の慣習は疑問視され、戦争や軍備という制度によって隠蔽されてきた「殺人の習慣」が批判の俎上に上ってくる。 戦争放棄と戦力の不保持を決めた日本国憲法は法学者のために書かれたものではない。憲法の条文は、難解な文言さえ説明されれば、中学生でも理解できる。特に、第九条の条文には難しい文言は一語も使われていない。「日本国憲法」が公布された翌年に、文部省が中学一年用に作った『あたらしい憲法のはなし』でも、素人の読み方とまったく同じ読み方をしており、「これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです」と解説している。 ところが、世論調査では憲法九条を支持する国民の多くは同時に自衛隊の存在を認めているという。世論調査は長年にわたって行われているから、調査結果の信憑性は高い。だが、国民の多くがこの矛盾を容認しているからと言って、それが正しいということにはならない。国民の多くが支持するから正しいということになると、例えば、米国における安易な銃保持も正しいことになってしまう。他国のことだが、ヨーロッパでも日本でも米国の銃保持制を正しいと考えている人は少ない。 米国の著名な平和学者であるグレン・ページ博士は、死刑制度廃止論者としても知られているが、彼は次のように言っている。
ここで、死刑制度について論述するゆとりはないが、民主主義的コンセンサスが常に正しいわけでないこと、優れた政治家のリーダーシップによって、社会が承認し、是認してきた悪い制度が改められた例も少なくないことは覚えておく必要がある。米国や英国における奴隷制度の廃止はその典型的な例だった。ここに民主主義の難しさがあり、その醍醐味があるのであって、ただ多数決にしたがっていればいいというのでは衆愚政治に堕してしまうだろう。 ところで、「殺人」を徹底的に拒否するならば、「何気なく」軍隊を支えるための税金を払っていることが気になってくる。メディアに乗らないせいもあって、あまり知られていないが、西洋でも日本でも、平和主義者の中には「軍事費(防衛費)分税金支払い留保」という市民的抵抗権を行使している人たちがいる。良心的兵役拒否の思想と実践にまさるとも劣らない着想として注目される。二〇年以上も前から知っているピース・アクションだが、私ももっと真剣に取り組みたいと考えている。 日本では、六月に逝去された日本友和会(FOR)の石谷行法政大学名誉教授らの運動が比較的よく知られている。確定申告の際、一定の方法で算出した割合の金額を、軍事費だからとして不払い(支払い留保)措置にするのである。英国でこれをめぐる裁判の判決を聞きに行ったことがあるが、結果は不払い者側の敗訴だった。しかし、もちろん英国での運動は現在も続いている。日本では、「陸海空軍及びその他の戦力は、これを保持しない」という憲法の条文があるのだから、本来、「軍事費分税金支払い留保」の自由は、市民的権利の行使として保障されるべきだ。 日本では、六月に逝去された日本友和会(FOR)の石谷行法政大学名誉教授らの運動が比較的よく知られている。確定申告の際、一定の方法で算出した割合の金額を、軍事費だからとして不払い(支払い留保)措置にするのである。英国でこれをめぐる裁判の判決を聞きに行ったことがあるが、結果は不払い者側の敗訴だった。しかし、もちろん英国での運動は現在も続いている。日本では、「陸海空軍及びその他の戦力は、これを保持しない」という憲法の条文があるのだから、本来、「軍事費分税金支払い留保」の自由は、市民的権利の行使として保障されるべきだ。 「軍事費分税金支払い留保」の実践者である「非暴力平和隊日本グループ」の大畑豊さんは次のように言っている。
いま、平和教育には、例えば、「軍事費分税金支払い留保」のようなオルタナティブな発想が求められている。平和教育はこれまで平和憲法を根拠にしつつ、原爆教育、沖縄戦の継承、加害者意識の涵養と、その歴史を刻んできた。その一つ一つがかけがえのないものであり、それらの遺産の継承と深化は不可欠である。しかし、同時に、良心的兵役拒否の制度的研究や「軍事費分税金支払い留保」のような、新しいタイプの平和教育もあることを認識しなければならないのではなかろうか。国防を錦の御旗に掲げる国との対決が迫っているように私には感じられるからである。 湯浅一郎(「ピースリンク広島・呉・岩国」代表)が発行する会誌には「自衛隊員の命も九条で守られているのです」という自衛隊員に対するユニークな呼びかけがある。自衛隊員をいたずらに敵視するのではなく、説得して、計り知れない人命の尊さを理解してもらい、彼らを平和の使徒(ピースエージェント)に変身させようとする斬新的なオルタナティブが、ここにはある。平和教育者や平和活動家が「平和ボケ」しないために求められているのは、絶えざる発想の転換にほかならない。 |
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